WISTORIA★TURISMO

   同人サークル「ウィストリア」「W TURISMO」活動案内  <2019年8月、Yahooブログから移転>                          赤以外の色字にはリンク色々いれてあります。ご参照ください。

『天地の祭典 蘇の章』(2-1-9)

『天地の祭典 蘇の章』(2-1-9)  A5判、40P、¥200

通販方法はこちらへ

やっとこ来ました九州、阿蘇!(熊本県

章の漢字は阿蘇の「蘇」にしていますが、巻末と後述記事にある通り本当は「襲」です。しかし「この字面が与える印象」×「表紙のこのキャラ」じゃ何だかちょっと・・・・・というわけで「蘇」に。
蘇生の蘇、紫蘇の蘇、耶蘇の蘇、古代チーズの蘇―――と、色々な意味とイメージがあって、W的には「善き字」。

◆表紙の色イメージは「高飛車な紫」。濃いと藍色に見えてしまうと思って敢えて薄めの規定色にしたのに、それでも濃かった・・・色って難しい。

◆「今月の神サマ」はもちろんこの方、阿蘇神社の祭神健磐龍命たけいわたつのみこと

※この巻から暫くはゲストキャラがつながっていくので、やや続き物となります

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P15・・・硫黄島(喜界カルデラの噴火
 2022年5月の年代測定の更新により、「6300年前→7300年前」となりました

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本当は直接阿蘇へ飛ぶはずが「いや、温泉好きなら先に別府に行くはず」と『岬』でうっかり気づいてしまい・・・でも何とか冒頭だけで抑えられました(その分こちらに/笑)

まずは温泉紹介から!

< 速水の湯 >   
現在の別府温泉大分県 別府市)。『豊後風』では「速見の湯」。
国史見在湯」(←造語)の中でも道後温泉(ニギタツの湯)や南紀白浜(ムロの湯)などの「三古湯」に次ぐ古さですが、日本中のどの湯と比べてもケタ違いの規模と泉種を誇る、「真・温泉のデパート」←登別のキャッチコピー です。
別府八湯をメインに小さい湯(泉/湯壺)がそこかしこに湧き、源泉は2000以上、泉種は50ほど、pHも強酸性から強アルカリまで幅広く、湧出量8万リットル/分!という脅威のエリア・・・!!
「温泉好きなら知ってて当然ランキング」(存在しません)では常に1、2を争う、日本代表クラスな温泉地です

隣接する大分市(古代の読みは「おおきだ」)もかなり豊かな温泉地で、浴室カランから温泉が出るビジネスホテル(しかしアルカリ性塩湯で石鹸が泡立たずイラっと)もありますが―――別府に比べるとやはり見劣る(><)
大分県が「温泉県」と銘打つのも、この別府の存在が大きいでしょう。

作中の「玖倍理湯の井」は鉄輪温泉のことと言われていますが、『豊後風』では
 「黒い湯」「常には流れない」(=泥湯?)「近づくなという程熱い」
 「周辺の草木は枯れる」(硫酸塩泉?)「大声を出すと二丈ばかり湧き上る」(間欠泉?)
―――と記載されているので、まったくの別物。
泥湯なら明礬エリアに「坊主地獄」(鉱泥温泉)、「紺屋地獄」、鍋山の湯、がありますが・・・・・・「現在は存在しない」でいいと思います。

全ての湯の源は鶴見岳とその北にある「伽藍岳」
双方はもちろん火山で、溶岩流が作ったであろう扇状地は断層だらけと、ジおたく的にも興味深いところ。。。。ブラタモリでも好評を博したそうですね👍
車ならぜひ明礬温泉と、伽藍の西麓・塚原温泉に行って戴きたい!><
     
 < 火焼女 > 
源泉の1つである鶴見岳山頂に祭られる火男火売神社の祭神(男女神)のうちの、女神の方。神名は火焼速女命ひやきはやめのみこと
古代の「速」という字には「勢いが凄い」=「強い」という意味があります。
この鶴見岳も火山ですが、この九州では大変大人しめな方。それでも大量の溶岩流で広大な扇状地を形成し、別府湾を作り上げました。その沸きあがる湯や伏流水のおかげで、中世までの別府は湿地&沼地状態だったそうです。


湯 府ゆふ 
現在の湯布院温泉由布市)、奈良時代大分郡(柚富郷)、江戸時代は速見郡由布郷)。鶴見岳の西にある由布岳の、その西麓に広がる温泉地です。

地名の由来は『豊後風』によれば「いつもこうぞから木綿ゆふを造っているから」だそうですが、これは「各地にあるある」パターンなので信憑性はイマイチ。且つ、こちらの字の方が現代の姿には合っておろうかと。。。←いいのかソレで

昭和初期からかたくなに「ツアーバスは呼ばない」「大型旅館は建てない」を維持し、平成に爆発的人気を博した高級路線派の最先端温泉地で、毎年「温泉ランキングTOP10」(by 旅行会社)に入るほどの人気観光地。

近代の開発地なので温泉神社はありませんが、町の南にある宇奈岐日女神社(県社、式内)がその役割を果たしていそう。ご神体は爆裂火口痕の残る由布岳(200名山)で、ここが湯布院温泉の源泉となっており、東西それぞれのピークに石祠が設置されています。
「昔は湖で、男神末社:蹴裂権現社)が山を蹴破って水を流した」という阿蘇に類似する伝承あり。豊後と阿蘇は同じ文化圏なんでしょうね。


< クジウ > 九重・久住
 この九重連山は古代「クタミの山」と呼ばれておりまして(『万葉集』では朽網くたみ)。
『豊後風』(救覃郷)にはこの「クタミ」が「臭い水ークサミヅ」=硫黄泉のことで、山麓には2つの湯の河がある――と書かれています。つまり「苦汁」ですね。しかしこの漢字はちょっと使いたくない・・・かと言って「九重」も「久住」もどちらも寺由来の漢字でイカン。よって、本誌ではカタカナで通してます。

 温泉地としては現代、北麓は登山者御用達系の「秘湯扱い」ですが、南麓の久住高原はロッジや牧場、GCが広がるなだらかなリゾート地★ 草原に広がる快走路はドライブにも最適。西麓には湯布院と共に「北九州お高め有名温泉二大巨頭」となった「黒川温泉」(熊本県南小国町)があります。

<アソマの湯>
九州は暑いからホウの主さまは実際来たことが無いはずで、ヒダカは更に又聞きなので、誌上の予想位置は大間違い(笑) 一応、夜峰山北麓の地獄温泉のことです。
木枠で枡目に区切られた混浴露天風呂が有名でしたが、2014年の熊本地震で被災。復活した!と思ったら、「湯浴み着を着て入る混浴露天」に大変身。。。ああぁ。。。

まあでも、仕方ありません。改装を機に混浴は撤廃される現代の法と風潮のもと、被災という特別理由だけでは混浴を保つには足りなかったんでしょう(※)。下からフツフツと泡が出てくる炭酸白濁湯の源は、すぐ近くの爆裂火口跡。ミニカルデラ内のゆったりトレッキングも可☆

※なんで混浴を保ちたいかと言えば、風情や伝統の域も強いですが、単純に「混浴(浴槽が1つ)の方が泉質を高く維持できるから」です。これは、実際天然露天風呂を自力で作ればわかりますから、ぜひやってみてください。信州なら、高瀬ダムより南の湯俣温泉で自作できます👍

 

<長の湯> 古名「湯原の湯」
九重連山の東麓(豊後竹田市)にある「長湯温泉」は驚異の炭酸泉(←日本にはあまり無いタイプ)。全国的には知られていませんが、温泉オタクや九州人には超有名です。

炭酸数値では「七里田温泉」や、九重連山の西にある「筌ノ口温泉」の方が上なのですが、「炭酸泉は低温泉の方が効能高い」という理由で、長湯温泉の名声が一番になっています。


お次は山の紹介を*****************************************************************
< 阿 蘇 >
当然に日本ジオパーク!且つ、世界ジオパークにも入っている、ジおたく悶絶の地それはもう、ゴロゴロと七転八倒に悶えます、このエリア。マジ苦しい。
ジオパークたる圧巻な広大地形を一目瞭然に一望できるなんて、日本では中々ありません。まずは北の外輪山大観峰へGO!

 誌面で紹介した9万年前の噴火がここの最大噴火でして。それ以降は大人しいものの、中岳の火口からは常に湯気が立ちのぼり、定期的にヤル気を起こしてます。昭和33年の噴火では死者12名。2021年10月にも噴石トバし登山道一部崩落。あれで死者が出てたら今回の発行は自粛ムードだったかも(←発行自粛はしない)

阿蘇は(信州人の目から見れば)全体的になだらかで草原が多く、優雅です。草の青い時期の米塚草千里ヶ浜は英国風でめっちゃ綺麗。西麓から行くとロープウェイや車道で簡単に中岳へアクセス可能。通は北麓の仙酔郷から入って高岳まで行っちゃいましょう
根子岳は名前の音から猫伝説が豊富で「肥後の猫は7歳になったらこの山に修行に来る」とカワイイですが、ギザギザ頭の峻険な独立峰で五岳の中でも登山難易度高め。
杵島岳については拙本『常陸国風土記』の「カシマ考」をご参照ください。

中央構造線博物館の記事でも紹介しましたが、元々地溝帯(大規模な”窪んだ溝”)だったこの場所で阿蘇が噴火して隆起してしまったため、大分から二本にわかれて西進する断層のうち、どちらが中央構造線なのかわからなくなっています。

大正発行の『阿蘇郡誌』(後述)では「阿蘇が無ければここは大海だった」と断言するほどのこの事実。阿蘇火山が九州を造った」と言っても過言ではないでしょう。

この阿蘇エリアが保有する湧水が莫大なため、熊本市民(70万人)の水道はオール地下水で賄えるという、これも世界的に稀有な事態になっています。

 

< 噴 火 >
作中の「ここよりずっと南の孤島」は、屋久島の北西にある硫黄島
俊寛が流刑された喜界島」の比定地にもなっていて、「喜界カルデラ」があるのも「奄美の喜界島」ではなくこっち。7300年前の噴火では、火砕流が鹿児島湾を越えて霧島市にまで達し、縄文・上野原遺跡を打撃しました。
これらに比べれば桜島など可愛らしく、あの富士山の噴火などお上品なものです。更にこの北の鹿児島湾にある「姶良あいらカルデラ」に至っては(超略)
 ※続きは『じんじゃらんシティーズ』九州エリアをご参照ください。


ここから本誌の解説**************************************************************

<アソの話>
そんなこんなで、巷で有名な「アソマ=火山説」には沿っていません、W。
だって調べれば調べるほど、「アソ」って「水に関する地名」っぽいんですよ。

 例えば丹後の天橋立砂州の東は「与謝の海」、西の囲まれた部分は阿蘇海」(丹後風土記逸文釈日本紀)。なんで?ここら辺、火山なんて無いよ??!
ここで『埼玉県地名誌』の「遊馬あすま」に関する記事を引用しましょう。

「すなわちアソには水の浅いところ、湿地の意があり、マには湖沼、狭間の意がある。したがってこの地が古く荒川沿岸の低湿の狭間にあったがためにその名がおこったものと解したい。」

 新たに湿地説が出ました、「アソ」。そうすると「阿蘇海」は「水の浅いところ」の意になるでょうか。

そして現代の首都圏である関東平野も、古代は治水・灌漑前でまさに水浸しで、アスマと呼ばれるにふさわしい地でした。それって「アズマ(東)」と呼ばれる元々の原因(由来)だったんじゃ??とすれば・・・・・・ 古代のあの「アヅマ はや」って「うわ、メッチャ湿地じゃん!(通りたくねえ~)」だった可能性が?

更に信州の「安曇野」。地名由来は「九州を本拠地としていた安曇族が日本海経由でここへ移動・定着したため」と言われていますが、古代は湖・湿地だったであろう地形で、「渚」「島々」「波多」など水に関する地名やお船神事など、水由来のアレコレが散見します。そして同じ日本海側のちょっと内陸にある「安曇」(鳥取県米子市)という地名は、「アズマ」と読むんです。なんでしょうね、この偶然。

そして気になるのは、諏訪社伝の人名に散見する「イヅ」や「エヅ」。「伊豆」とも「会津」も取れる字を当てていて、「イヅモ」の「イヅ」と同じようにこれは「厳 イヅ」の意だと思っていたのですが―――最近混乱しています。まさか、これも「水」(津)に関係する地名・名前なのか??と。

イヅミ(泉、出海)のように湧き出る力強さも表現しているとすれば、まさに湧水豊富な扇状地や水源が集中するカルデラ盆地に相応しい地名。「ア」が「イ」に転じる例をあまり知らないので、アズマに結びつけるわけにもいかないのですが・・・・・・

ここで気づくのです。もしかして、「磯(イソ)も元はアソ」なのかな?と。いや、逆か。順番的には「アソがイソになった」んだろうなあ。。。。
「磯」は「浜」と違って「岩に囲まれた水の区域」という感じ。それなら丹後の阿蘇海は天橋立に閉じられてまさにそうだし、カルデラ湖も広義のイソ・アソではある、確実に。アスマ(アヅマ)やアソが、イヅ(エヅ・イヅモ)やイソになったとしたら・・・それにはどれだけの月日がかかったのでしょうね。

まあ、言語学が専門なわけではないので、派生はここらへんにしておきましょう。

とにかく、信州のアソ&アサマ山(大カルデラ)も、富士山麓(アサマ信仰)も、水没しやすい狭猥な盆地やダラダラした湿地になりやすい穏やかな湧水地なので、この「水浸し説」が起源であってもおかしくはありません。アソという地名なら敦賀にも三重県にもあって、どちらも火山には関係無くて、どちらかと言うと海や水に関係しています。

 

次に、「アソ=アイヌ語起源」の視点から見ていきましょう。

「渡来人が浸潤する以前の日本列島には、縄文系統の土着日本人が跋扈していた」という点に異論はありませんが、その「縄文人」全員・全域が「渡来時代までアイヌ語含むアイヌ文化をバッチリ☆保有していた!」という証拠は、無いですよね。。。
 そして「富士山」も「炎を意味するフチというアイヌ語」が由来だと言われているのに、じゃあなんで「フチ(富士)神社」じゃないんでしょう?

関東の那須岳白根山も、東北の磐梯も蔵王だって、とってもステキな火山なのに!! 「アソ・フチ」は、毛ほどの名残りもありません。
いやそれ以前に、アイヌの本場・北海道に「アソ」がつく火山がありません樽前山カルデラ支笏湖昭和新山を擁する有珠山の、その北にあるカルデラ洞爺湖。どうみても成層火山蝦夷富士・羊蹄山は「マツカリ・ヌプリ」だし、モックモクの十勝岳は「トカウシイ」だし、崩壊カルデラ大雪山は「ヌタプカウシペ」や「カムイミンタラ」です。。。。なのになんで、メッチャ離れた九州がズバリ「アイヌ語で火山を意味するアソ!」なわけ、あるんでしょうねえ??

ていうか、 誰が言い出したの?これ。

 阿蘇には「閼宗」という字もあてられています(『肥後風逸』@釈日本紀)。
名の由来は書物によれば「景行紀に出現したという阿蘇二神(阿蘇都彦・阿蘇都姫)」からですが、こういう「男女神が同じ名前を冠してる」場合、「その名は地名から来てる」ってことなので・・・―――「先にアソという地名があって」「それは火山とは関係ない地名で」「そこを治めた神/王と巫女/女王が阿蘇都彦&姫と呼ばれた」が妥当かと。

そんなわけで。

『シティーズ』の富士記事では一般向けにああいう内容に留めましたが、「アソ、アソマは火山につく地名ではない」のです。かと言って「九州の阿蘇」が水に関する地名だとも断言はできない・・・とりあえず『天地~』では、当章巻末の通り  阿蘇の名称由来は「(熊襲の)ソの国」を貫きます。

◆「ソ」は百襲姫や葛城襲都彦の「襲」同様、「ソ=霊威ある荒ぶるもの」説。
◆「クマ」は「曲がりくねった地」「入り組んだ地形」。漢字だと「曲」か「隈」。紀伊熊野のクマ。熊本の漢字は元々は「隈本」で、球磨川はウネッウネの日本三大急流(2019年大氾濫)。大隅半島の最高峰は高隈たかくま山!


< ヒ の 君>=火の君
さて、そんな阿蘇国だったのに、政府の都合で「肥後」になってしまいました。7世紀に肥前(佐賀&長崎)と肥後(熊本県)に分割。その前は一帯が「火の国」でした。

記紀の「ヒの国」に関する記載はほとんどが海沿いの話で、阿蘇は含まれていません。
その「肥の国」統治者である「火の君」の本拠地も、熊本県南部海沿いの八代。「火の国」の火は「火山の火」ではなく、その八代の「不知火」が由来です(『肥後風逸』では「空から降って来た」等。←噴火球?)。
某書で「火の君」は「阿蘇の君の同祖」とされていますが、その祖とやらがまた例の神八井耳なのでウっソくさい。初代の「火の君」となった緒組は、祟神朝に「肥後平定」を命じられた官人(肥前風/肥後風逸)だから、こちらは天皇の兄が祖でもおかしくはないですが。。。

 

肥後国には、式内社が4社しかありません。
そのうち名神なのは阿蘇神社だけで、他3社のうち1社は既に廃社。西日本~九州北部でこんなに少ないのは異常です。北にある肥前国長崎県)の式内数と比べると、朝廷にどんだけ雑な扱いされていたのかわかります、肥後。「後」の字をつけられた地名は、単に「都から遠い方」という意味だけではなかったんだろうな・・・と今更ながらにわかります。

肥前が重要視されていたのは、「朝鮮半島や大陸との航路中継点」として。八代は肥後エリアの中でも、その「西からの海路」を受け入れるに都合の良い位置。天草諸島に閉じ込められた海域は天然の要塞のようで、その頃既に支配下にあった肥前からの足掛かりにするには、最適地と言えます。
つまり八代は「肥後エリア侵攻拡大の最前線」だったわけで。

そこから次第に支配地域を広げていき、やっと山岳地帯の阿蘇へ手を付けられても、初期は反大和感情を抑え込むためか現地首長を残して「阿蘇国」扱い。
ようやく包括できたのが古墳時代、なんでしょう。

  よって「初期九州4国」(記紀)のうちの「肥の国」は平野部分のみ。山岳地帯の阿蘇もミヤザキ同様 ”「筑紫」「肥」「豊」以外” を指す「クマソ」に属していたのでは?と思うわけです。しっくり。


日向国 ミヤザキ考
 磐龍は、宮崎県北端の五ヶ瀬川高千穂峡)を遡って阿蘇入りしました。
巻末に載せた通り、宮崎県は「初期九州4国」(記紀)時代の「クマソ」。景行紀に「日向」の国号を授けられた地は、この五ヶ瀬川の南にある児湯郡です。

「宮崎の古代豪族」と言うと、西都原古墳群(西都市)の首長「 諸縣君もろがたのきみ」。応神朝に娘(髪長姫)を差し出したこの一族の長は「牛諸井」。彼らの本拠地は、クマソや島津家と同じく都城市付近(=宮崎最南端)だと言われています。

宮崎南部には海幸山幸(←神武の祖父)の神話が残り、初代天皇・神武が東征する時の出発点は宮崎市辺り。なのにそこがクマソだったなんて、よくよく考えればおかしな話ですよねホント。シナリオミスとしか言いようがナイ=3

実際は「大和とは何の関係も無い現地王国クマソ(ミヤザキ)」を「北部から少しずつ日向国(大和支配域)にしていった」―――のでしょう。そして最後まで残った南方が、隼人に代表される「最後まで恭順しなかった蛮族」扱いを受ける羽目に。それが平安時代では護衛として重宝されたのですから、大陸重視の末にガラパゴス化した都人ってこの時よほど軟弱化していたんだろうなあと思うのです。


< 阿 蘇 の 君> =阿蘇
 一時期「阿蘇国」と称されていた古代アソの統治者は、磐龍の子孫。阿蘇神社の神官であった阿蘇国造=「阿蘇の君」です。

 「国造」は律令前の制度による官職だったにも関わらず、今も祝系統名称(神職家系)として多々残っておりまして、中でも阿蘇国造は出雲・紀伊と並び「現在でもすこぶる健在」な類。「延喜代(10C前半)には初代阿蘇宮司宇治友成が摂津の高砂神社に訪れた」と能『高砂に語られており、都でも名が知られていたようです。現在は宝刀蛍丸(戦中に行方不明)の所有者として刀剣ファンに有名、でしょうか。

 阿蘇国造は一時戦国大名だったという武闘派ですが、南北朝で疲弊し衰退。更に近世で島津に大敗した後は、大宮司として大人しくカルデラ内で過ごしています。

※宇治氏は阿蘇氏の傍系。
阿蘇神社は2016年の熊本地震で拝殿・本殿共にペシャンコになり、その復興支援か「or.jp」で公式HPが出来ました。今までの「or.jp」神社サイトって、何年か経つと正式な神社主催のアドレスに変わるんですよ・・・

阿蘇神社の一般的な内容は拙本『じんじゃらん』P57にも掲載しています。
  

< 鬼 鉢 >
キハチは「磐龍の臣下で怪力快速」。
漢字は「鬼八」で、たまに「オニハチ」とも。真意は「キシマ・カシマ」(神島)と同じく「神鉢」、つまり火口のことだと思うので、この字にしました。

伝承では「磐龍に処罰されて死んでしまう」のですが、首を切っても切っても元に戻ったとか・・・・・・高千穂町にも似たような伝承があって、バラバラにして埋めたらオッケーだったようですが(ヒドイな)、「溶岩に浸したら生き返る」くらいは出来そうな気がします。


< 磐 龍 >
神武の主要息子は以下3人。

① 日子八井命・・・『記』の長子
② 神八井耳命・・・『紀』の長子(記では次男)
③ 神沼河耳命・・・第二代目綏 天皇

「この3人は同母兄弟である」と『記』にはっきり書いてあるのに、その『記』での「タギシミミ事件」(タギシミミは彼らの異母兄で皇位を狙った謀反人。神武の死後、皇后である彼らの母を娶ろうとした好き者)では①は全く出演せず、②と③の兄弟だけで話が終わってしまう。①は出自と「茨田連、手島連の祖である」という後裔を紹介されるだけの存在だ。そして、『紀』に①は全く出てこない。

 ②はこの「タギシミミ事件」で自分の臆病を恥じて弟③に皇位を譲ったのだが、その時に「自分は天皇の臣下になる」と誓った。つまり皇族から臣籍に落ちますよ、と申し上げたわけだ。そうなると通常、姓名や称号は変えるものである。②から神裔であることを示す「神」の字と皇族男子によくつく「耳」を取ると・・・あ、①になるじゃん!! というわけで、①と②は同一人物なんじゃなかろうか。

 そうすると「磐龍は②の息子であり、①の娘と結婚する」=近親婚になる。どちらが述作だとするなら「阿蘇神社に全く祀られない②」の方の関係だろう。

 磐龍の名は音も字も古代っぽくない。「龍」は義父である①の別名「國龍命」から一字取ったものか。。。「磐」は6C前半(26継体朝)に朝廷に対して反乱をおこした「筑紫君磐井」(記紀/筑後風逸)を彷彿させるもので、神坐に通じるものもあるけれど、この場合はやはり「武力や強さを象徴する字」ではないかと。磐井は物部氏に誅殺されたが、その墓は八女市にあるらしい(岩戸山古墳)。

 書によると①は神武東征に付いていかず、日向国(宮崎県)に残留したという。イワタツが宮崎県側から阿蘇へ入ったのも、「まずはこの①を頼ったから」なのかも。

ストーリーは色々考えられる。

A「②が臣籍降下して①になって九州へ行った」=「神武に転封を命じられたのはイワタツではなく①」。そこで①は現地の最大勢力「アソ一族」を築いた。その①の子孫と結婚した(①から見れば)余所者が、イワタツを名乗った

B「①は元からソの王だった」「神武の命令で阿蘇にやってきた大和者のイワタツが、①又は①の娘に見初められて阿蘇王を継いだ」

どっちが良いだろう?


<  諏訪(科野)との関係 >
では、そろそろわけのわからない話に突入しましょう。
 「イワタツ=イオタケ」説は祖や妻子の名称が同じだからであって、同一人物だと明示している古典はどこにも無いし、同一人物だとしたら「阿蘇神社の祭神は元・科野国造」ということになってしまう。この「イオタケは阿蘇に下向した」という説話は阿蘇側にあるようだが、まっとうな古典書(せめて神社発行)では確認できなかった。
どちらにしても時代も辻褄も合わない。何故こうなった??

◆諏訪の北方の穂高神社(中信)には「九州の安曇族が移住してきて興した」という伝承がある。
 →ここの大社「穂高神社」は内陸高山地帯にも関わらず、海神の息子
  「穂高見命」を祀る。豊玉姫の兄弟だ。安曇族の本拠地は糸島。
 →しかし、穂高と諏訪に接点が無い。アスマ繋がり?
 →古墳時代に洲羽国造と科野国造を兼任した者(健隈照命)も居るが、
  そもそも科野国造の本拠地はもっと北の更級国(現・千曲市、東信
  の北端)で、諏訪じゃない。
  更科には信州最大の前方後円墳があり、科野国造の墓だと言われる。

諏訪大社には「祭祀家系・守矢氏の祖は物部守屋の弟」なんて伝承も残っている。守屋の妹は蘇我馬子に嫁いでいるんだけど、その蘇我氏傍系の石川氏の娘が産んだ「藤原不比等の息子」が、風土記編纂の時代に九州節度使だった宇合・・・ ああっまたこいつか!!

諏訪大社側の家系図だとアソ姫の父は「会知早雄」、祖母「会津姫」、その祖父は「出速雄」。「エヂ(アイチ?)」「アイヅ(エヅ?)」「イヅ」と、地名(愛知、会津、伊豆)のような紛らわしい音が連なっていて、「阿蘇姫」も書によっては「会知速姫」だと書かれていて、元々の漢字は「阿蘇」じゃなかったのでは?と思わせる。(←会曽とか?)

中世の阿蘇神社と諏訪大社の祭主間で何か思惑があったのかもしれないが、今となっては「神八井耳を同祖とする」以外には何の繋がりも見えない。目的も利点も不明。

関係無いと思うが、諏訪から東に峠を越えた向こうの信州上田に「古安曽こあそ」という地名があって、安曽神社もある。峡歪な千曲川の左岸にある閉じられた平地で、その東には「火山を意味するアイヌ語:アソ」話で、富士山(浅間神社)と一緒に必ず取り上げられる火山「浅間山」が。。。。

「諏訪のイオタケが阿蘇に孝霊代(5)に下向し、景行代(12)に阿蘇津姫彦神が現れたからアソと言う」―――だと、「アソの地名起源は信州にある」ことになってしまう。
それだけはなんだか避けたい「阿蘇大好きW」は、この「アソ=閉じられた水場」説に一縷の望みを託したく、こうして切々長文を残しているのでした。

 

阿蘇と諏訪>
両社に似通う部分を列記するとこんな感じ。

他のローカル大神(氷川、香取、駒形等)に比べると分布が広域
阿蘇阿蘇山が広大で、影響を与える範囲が広かったから
 +中世の宮司家が武家としても政治的にも強かったため影響力があった。
片や諏訪は、中世鎌倉に重んじられ武家によって広まり、全国に分社がある。

中世から神職の力で朝廷に重んじられた武神
阿蘇が重用されたのは平安時代で、諏訪は鎌倉時代から。

竜神伝説を持つ
阿蘇は「磐龍」の神名から来ている模様で、伝承の域を出ていない。
諏訪は数巻に及ぶ壮大な神話(神道集)が繰り広げられている。

古代は大湖を擁した山岳盆地
阿蘇カルデラ湖で、諏訪は地殻変動による陥没湖。
阿蘇はその湖を干拓して繁栄し、諏訪は逆にその湖を祭祀対象として祀った――
という違いがある。

どれも「たまたま」というか、よくある類似点というか・・・

諏訪と阿蘇に実際の繋がりがあったとしたら、友成が勢力を振るった平安時代から、諏訪が力をつける鎌倉時代の間なんじゃないのかなって気がします。もしくは一族内争乱で阿蘇家が衰える南北朝時代かな。


<神名「イワタツ」>  龍・竜・立
もともとは「竜」の字を使っていたようで、式内社名も「健磐竜命神社」、『名』(戦前の発行)ではどの神社もオール「磐竜」です。(「磐滝」になってる社があったけど多分誤字@『名』)しかし現在は、多くの神社が「磐龍」表記。
一等の阿蘇神社が「磐龍」で固定するようになったからでしょうか。

奈良の龍田大社は式内掲載時から「龍田」なので「当時は龍という字が使われてなかった」というわけではないし、「竜ではなく龍にしなさい」というお触れが出たという話もないし、阿蘇神社が「龍」で主張し始めたのは戦後です。常用漢字ではない「龍」にわざわざ変えたのは何故なんだろう・・・
「かっこいいから」? どうでもいいっちゃいいんですが、何か気になりますね。

信濃天龍峡はちゃんと「天竜峡ではなく天龍峡で統一します!」って説明を載せてますが、神社はそういうことしないしな(笑)

そしてたまに「磐立」も見かけます。
タツという概念が中国から日本に入って来たのは弥生後期から古墳時代と大変遅めなので、意味としては「立」だったのかなあという気も。

霊獣としても、「辰」より「巳」の方が古いです。
辰はキトラ古墳の四神獣(白虎・朱雀・玄武・青龍)や神獣鏡が初で、その概念が広まったのも王侯貴族だけ。庶民信仰は平安時代まで(ある意味今も?)蛇の方が強かった模様。「地震を起こす動物」も、中世までは蛇でした。
ギネス記載のように縄文時代とは思えませんが、少なくとも「神武の時代」というのは古墳時代より前なので、「イワタツ」の神名に神獣の竜(龍)の意味はなかったと思います。

 

阿蘇郡誌 >  大正15年、阿蘇郡教育会発行
とにかく記紀風土記に磐龍は登場しないので、うわ、阿蘇郡誌を入手しないと『蘇の章』出せないじゃん!と10年くらい前から気付いておりました。当時Amazonで18,000円(中古)。他にもっと欲しい古書あるのに・・・

でもコレの原稿作成には不可欠なので、もちろん「買い」です。
覚悟を決めて、さあ買うか!と2020年1月に検索したら、なんと! 2019年7月に国会図書館デジタル公開してくれてました!!><
ああああありがとおおおお~!(おおっ新撰姓氏録も公開してるっっ)

序(緒言)によれば、この本の発行は「郡制廃止記念の事業の一環」らしいのですが、内容は地位のあるおっさん達が4年もかけて上梓した全霊渾身の阿蘇賛歌本」です。もう、モノ凄い。

本文は「阿蘇火山を中心とする地理地誌の自然界」「阿蘇神社を中心とする神代からの歴史、伝説、遺跡、遺物、果ては現在の組合に至る人文界」「地域ごとの地理歴史を記した町村略誌」にわかれており、付録は阿蘇家・細川家・菊池家の家系図と、もはや「異常にレベルの高い近代風土記」。

特に「自然界」では阿蘇山の形容賛辞美しく、学者により別府~島原地溝帯もわかりやすく述べてあって、最先端(当時)な地理記述の嵐。「もし阿蘇山の噴火がなければ九州は南北二島にわかれていて、瀬戸内から有明海まで海が繋がっていただろう(小藤博士はこれを阿蘇水道と名付けられた)」「阿蘇はかつて富士山に比する高嶺だったが、自らの重量に耐え切れず崩れた」(チョモランマ?!)なんてファンタスティックな記述まで!  もちろん雲仙普賢岳は「温泉うんぜん岳」だし、各温泉地の記述に溢れているしで、素ン晴らしいっ(><) b

大正時代発行だから書き下し文なのも嬉しい(←明治だと漢文)=校注ナシでもフツウに読める!

――よって訳本は特に発行されておらず、現代からすれば「おおらか過ぎるデータ」も載っているため、学術世界では率先して紹介される本ではありません。が、阿蘇周辺のローカル伝承の出典元は大体コレです。

ああぁもう・・・

肥後や豊後の風土記本より阿蘇郡誌本出したいわ (完)