WISTORIA★TURISMO

   同人サークル「ウィストリア」「W TURISMO」活動案内  <2019年8月、Yahooブログから移転>                          赤以外の色字にはリンク色々いれてあります。ご参照ください。

別冊・古代のまなびや「常陸国風土記」~追補&裏解説~

本誌に載せたらとんでもないブ厚さになるからダメ!我慢!!な内容を、やっぱり我慢できなくてここに集約させてみました。
元々「アレもコレも」な性質が、「中綴じ」(MAX40P)という制限と「ネットに後日UP」という利器により、少々おさえられる時代になったことは誠に幸いでございます。
 
< 背 景 >                                                                
風土記は「歴史」や「文学」として作成されたものではないので編者の作為があまり入らず、たとえ荒唐無稽でもそのままの形で残されていて、おかげで一級の資料と成り得ている。 (『全訳注』要略)
 
 「歴史や文学でなければ一体何なのよ?!」と問われれば、それはハッキリしている。風土記は「地誌」だ。そうすると網羅列記の『出風』こそが「中央の望んだ正しい形の報告書」と言えるだろう。上記の「荒唐無稽でも一級の資料」的観点では、『播風』が一番光っている。読み物として考えると、やはり『常風』に軍配が。『豊後風』と『肥前風』は欠落が多いが、景行や神功を追求している人には最高資料となる。とにかく全部イイ。なのに『記紀』に比べて世間の評価は(以下省く)。
 時間軸で綴られる仮性編年体の『記紀』に慣れている人には少々厄介だが、地図や年表と照らし合わせながら読み解くのが風土記の醍醐味。ついでに地形の変わり様やその地の変遷(歴史)も学べる、地域学の優秀教材だ。少なくともエリア内の小中学校の教師と役人は必読 。
 
※各国には風土記より後世に、「~後風土記」「新編~風土記が存在する。
   どれも大体中世以降の制作で、公的刊行とは限らない。
 
常陸の範囲 > P3-4                                                   
●P3:薄すぎてわかりにくいが、常陸ではないエリアにトーンを貼った。
●本誌で注記し忘れたので、郡の堺はこちらの各記事に載せた。
 大体は川筋や山脈が国堺(郡堺)なので、地形を掴むとわかりやすい。
●本誌のP3、16、27には、弥生~古墳時代辺りの古・霞ヶ浦域にトーンを
 貼ってあるのでご参考まで。
 
常総 じょうそう
常陸ふさの国上総かずさ下総しもうさ)」のこと。ほとんどの場合「上総」を含まない。
狭義または「常総エリア」と表現した場合は、この霞ヶ浦南部一帯を指す。
 
ああ、それよりチーバ君の、あのポキンと折れそうで折れない鼻 (エリア俗称「チバラギ 本当はチバラ「キ」だけど9割「ギ」って発音されてる・・・) はどうにかならないものなのか。昔は茨城県南西部も含んでいてもっと太かったのに下総、何故こんなに細くなった??
当然、Wの「見ててムズムズする県境TOP3」入りしてる。(一位は飯豊山の福島領) しかもそこに妹夫婦が住んでいるものだから(まさに野田市北端)、年に1回はムズムズしてる。・・・・・・折れるっっ
 
< 多珂 >  P6                               
郡の範囲は北は県堺、西と南は山脈。
元々は福島県大熊町まで「多珂の国」で、「これを常陸国編入したので常陸国は広大になってしまった」(だから勿来の関以北を切り捨てた・・・)。よって観光は「旧・多珂の国」でまとめると良い。多珂郡+「勿来の関(比定)」「いわき湯本」も入ってコンパクト
 
碁石の浜」
現・日立市十王町伊師浜。
Wikiの「碁石」の頁に”『常陸国風土記』に鹿島のハマグリの碁石が名産として記述されている。”とあるが、そんな記事は『常風』のどこにも無い。多分この多珂の間違いか、「新編~」などに載っているのだと思う。
 
●どうでもいいことだが、常磐線が磐城を通り越して宮城県までいってることにビックリした。。。。
 
< 久 慈 >  P6-7                         
郡の範囲は久慈川下流以北と上流域(支流玉川含む)。
岩手県北端に琥珀で有名な久慈市があって、大雑把に「同じ太平洋側」なせいか400kmも離れているのにたまに取り間違えられる。
書によっては「大子町だいごまち全域を常陸国に含む」としているが、それは16C以降の話。それ以前は大子町全域が陸奥国白河郡であり、街道の2つの「境の明神」(=関)をつなぐラインも大子町の南端を通っていた。
『常風』でも”久慈郡の北は「多珂国と陸奥国との堺の山」”となっているので、本誌では八構山ではなく花立山あたりと判断し、これに倣った。
 
< 那 賀 >  P7-10                      
郡の範囲は久慈川以南&以西・涸沼以北の、那珂川流域。北は大子町との堺。
西は城里町を不規則に縦断している。藤井川でもなさそう。
現在の漢字「那珂」の漢字の方が独特で良い感じ。那珂湊は魚介におけるブランド名になりつつある。
 
クレフシ
もう、何なの、このトバッチリ伝説
「くれふし伝説」はヌカ彦とヌカ姫のお話。ヌカ(努賀)は多分、那賀のこと。
このあと
 ①兄を殺されてびっくりした妹は、ついヒラカを子に投げつけてしまい(ヒドい)、
  子は天に昇れなくなって峰 (クレフシ山) にとどまった
 ②子蛇を盛ったヒラカと甕は片岡村にあり、子孫は社を建てて代々
  これを祀って続いている
―――と説明して終わる。
「クレフシ☆物語」の方は逸文で、実はどこの郡の話か明記がなく、地名も人名も一切出てこない。だが、那賀郡のクレフシの話の後が「以下省く」となって他の説話に移っているので、続きがこれだったのではないかと思われる。
 は書によって訳が異なっていて、「みか」と読むと「かめ、「ほとぎ」と読むと「瓶や缶のような容器」、「ひらか」と読むと「平たい皿」。杯(皿)の次がいきなり甕では大きすぎるので、「ひらか」にした。
なお、弥生時代で最大と言われる甕は高さ139cm、口縁直径101.8cm吉野ヶ里
 
そして最初オスの雉を描いていたのだが、最終チェックで「メスの雉」と『東洋風』に訳されていることに気づき、驚愕。
普通オスでしょ?! わざわざメスって原文に書いてあるの?本気で??
しかし『東洋風』は原文が載っておらず、『全訳註』には逸文が載っていない・・・
直した
そういえば、「雉の生態」のネット記事の写真「雉の母子」が「ライチョウの母子」だったサイトがあった。確かに羽の模様は激似だけれど・・・「ハイマツ帯に雉」はナイ(笑) 「ネットは他者の目(編集や校正)を経ないで簡単にリリースできるものなので、市販本ほど信用してはならない」というおハナシ。
 
< 新 治 >  P11                         
郡の範囲は北は県堺、西は現・鬼怒川、西南は騰波ノ江、東南は吾国山の山脈。
東端は現在の笠間市水戸市の堺より西寄りで、旧・友部町の東側と旧・内原町は那賀郡。「昔の茨城郡の群衛があった処で、今は那賀郡」(P16)とは、この「旧・友部町の東と旧・内原町」のことだ。
白壁郡との堺は何を基準にしたのかよくわからない。
ここに何か古代特有の重要事項が横たわっているのかも……。
 
銘石
良い石を産出するこの地は、土も良いから笠間焼や益子焼(栃木)などの焼き物も盛んだった。もしかするとこの石の権利の関係で、笠間村の東側まで新治郡だったのかもしれない。
 
出雲との関わり
国造のヒナラス命は出雲氏と同族。
那賀の大洗磯前神社は出雲神を祀っているのだが、「出雲大社と大洗磯前を直線で結んだ線上(※)」(現・桜川市のR50北側)にはに出雲大社教常陸分社がある。久慈郡にも出雲神を祀る神社が多数ある。  ※実際は直線にはなっていないような気がするが・・・
 
< 筑 波 >  P13-15                   
郡の範囲は北は筑波山、西は小貝川、東は筑波山脈と桜川、南は現在の「つくばEX」ライン。
「筑波富士」―――筑波山をそう呼んでいる人が居るようだが、今年中に改めるべきである。筑波山の東にちゃんと「富士山」(標高152m)があるのだから、混同してはいけない。
「つくばね」(筑波嶺)は、音的に芋類を磨り下ろして団子にして揚げた美味しいモノを彷彿とさせて大変良いのだが、最近はあまり言わないのは何故だろう。バネっぽくてダメなのか?
 
※なんで左上にガマが描かれているか非関東民にはわからないらしいが、「筑波のガマの油売り」が有名だったのは確かに江戸の昔の話。廃れてそろそろ100年経つから仕方ないかもしれない。
※現在市販(?)される「ガマの油」にガマの油(蟾酥センソ:毒性)は入っていない。
※MAPイラストに「がま洞窟」を入れようか迷ったが、施設的にもってあと10年と予測し掲載は断念した。
 
< 茨 城 >  P16                      
郡の範囲は東は巴川、南は涸沼、西は筑波山、北は桜川
武蔵国埼玉サキタマ武蔵国北東部)エリアのようなもので、今はすっかり片田舎。
なのに何故県名にしたのか。しかも引用元は大量虐殺の説話・・・・・・
廃藩置県で古代遺跡や国府のある地域名を県名に採択することは、あの時代の回顧復権の流れからすれば妥当だったのかもしれない。が、意図的に旧藩名や旧国名を使わない理由が「採用されなかった国や藩が騒ぎ立てるのを回避するため」だったとしたらガッカリだ。
 
佐志能神社
論社的には笠間市(新治郡)の佐志能神社が優勢。ついでに「龍神伝説も元々はクレフシの蛇神のことであって、本来は那賀郡茨城里の伝説なのに間違えて茨城郡に伝わってしまったのでは?」と那賀の民(水戸市民・・・?)に言われている。
確かに「新治」と違って、重なる時代に今も複数存在するこの「茨城」は非常に紛らわしい。でも「茨城里は元々は茨城郡」らしいのだが。根の深そうな論争だ。
茨城里と茨城郡の間(よりちょっと西)に祭神の御陵「丸山古墳」があり、そこにも「佐志能神社」がある。色々と混乱している模様。
 
祖先が藩医だったという縁で、総社宮には手塚治イラストの授与品(お守りや御朱印帳)がある。
 
< 信 太 >  P17                      
郡の範囲は北は霞ヶ浦と(水戸市とは別の)桜川、西は現・市堺から牛久沼・小貝川、南は利根町との堺から利根川、東は利根川
ここから行方南部まで「水郷地帯」で、観光舟が盛ん。
 
< 行 方 >  P18-19                       
郡の範囲は行方市潮来市(当時は半分くらい湖底)。シンプル。
(こまかく言えば、鉾田市南西部や小美玉市南東部も含む模様・・・)
一切省略されなかったことで光るこの郡。所謂「内陸半島」で、都から見れば「常陸の入口」である「シダ」や「カシマ」から、国府のある石岡へ向かう道筋。何か特別感があったのかもしれない。
 
●高速道路
常識的に考えれば、既存の茨城空港北ICと潮来ICを真っ直ぐ繋いでこの行方半島(仮称)の東側を高速が通ると思うのだが・・・・・・まだ鉾田までの延伸しか決まってない。地元政(?)力比べ的な、ドロ沼合戦を期待したい。
→→ 2019年、行方半島ルートで決定!(第二版より追加♪)
 
●そしてアレが繋がれば、茨城空港を「成田空港への乗継空港」として使えて経済的効果が狙えるらしい。羽田--成田間よりは距離短いし、渋滞も無いから早いだろう。
開港当時は怪しかった存続も落ち着いて、いまや我らがまつもと空港よりも発着便が多いイバラキ(2017年現在:神戸、千歳、福岡、那覇、上海。1日国内10便、国際12便)。東京から高速バスが片道¥500(搭乗者のみ)とか、無料駐車場1300~3000台(繁忙期)とか、混雑空港しかない関東人にとっては魅力が大きい模様。
頑張れ、IBR 
 
< 香 島 >  P20                     
郡の範囲は涸沼以南、西は北浦、南は利根川
 
香島郡の分割を願い出たのは、「中臣部兎子」と「中臣?子」。(?は欠字)
この「中臣?子」は、中臣鹿島連の主筋の祖であり兎子の従姉妹である「国子」ではないかと思われる。
鎌足がまだ生きている時の話なので、さぞ強気だったろう。
 
< カシマ考 >  P21-27                      
これに何ヶ月費やしたことか――― ほとんど「九州調査」。
 
① 神社名と祭神名ついて
○○を「地名」、××を「神名」とすると、
神社名は、古くは「○○坐××神社」(○○に鎮座する××神の社)と表現されていた。
これは奈良県に多く残っている。 (Ex.多坐弥志理都比古神社穴師坐兵主神社) 
飛鳥坐神社」は神名××が省略されているケース。
というか、本来神名は秘すものなので「○○神社」が普通だ。
 
この「所在地の地名を冠する」○○神社を「日立タイプ」としよう。「オムロン型」でも良い。古霞ヶ浦に「香取の海」があるので、香取神宮はこのタイプだと思って間違いない。大体、古い大社はみんなそうだ(出雲、伊勢、熱田、宇佐 etc.)。
 
逆に「地名を変えるほど偉大な」神社 (××神社とは限らない)を「豊田タイプ」又は「天理型」とすると、『常風』の記述によれば鹿島はこっちになる。
 
信仰(就業)人口や経済的政治的影響が大きいとこの現象が起こる仕組みは古代も現代も同じだが、そういう階層システムどころか権力の集中すらできあがっていない時代にこれは起こらない。
 
これを踏まえて「カシマ考」では、「香取は古くからの地元神、鹿島は古墳~律令時代、遅くとも平安時代以前に有力氏族が持ち込んだ神」の可能性を提示する。
 
尚、神威霊験状態をあらわす「特殊タイプ」(Ex.稲荷神社、籠神社)もある。
山口神社や水分神社は地名に近い○○神社でもあるが、このタイプだとも言える。
 
常陸のカシマの由来
さあ、ややこしい話をしましょうか。
ところが風土記以降に記された現地「鹿島神宮」の書には、鹿島神宮の名の由来を「社頭より離れたところに鹿島という島があったから」としている。(『鹿島宮社列伝記』『鹿島神宮伝記』『夫木和歌抄』)
そーすると鹿島も「日立タイプ」ということになるのだが、では、その島を何故カシマと呼ぶのか。
 
「カシシマ」説を取る場合、Wは「杭のような(垂直方向に突き出た)島」と同時に「杭のように海に(平面方向に)突き出た地形」も支持したい。つまり、「細長い砂洲状の地形」だ。そうすると鹿島市も、鹿島神宮のある地域もあてはまる。『出風』の加志島 (島根郡。現・美保関町の千酌湾の笠裏) もあてはまる。
「カシシマ」という地名や島名は現在残っていないので、もう推測するしかないのだが、「堅洲」に近い語感ではなかったかと思われる。
 
鹿島の別古書には、「甕(ミカ。壺のこと)による祭祀をおこなった山、甕島(ミカシマ)」がその鹿島の近くにあったそうで、この「ミカシマ」の「ミ」が省略されて地名「カシマ」になったとも書かれている。
(それでここは「鹿島の津」と呼ばれ、社名にもなった、と・・・)
この「ミカシマ説」は捨てがたい。
だが「祭祀をおこなった島」なら、既にカシマ信仰が始まっている時代ということ。
卵が先か、ニワトリが先か・・・・・・
 
しかし全ては鎌倉時代以降の書による記述なので、やはり後付け感が払拭できない。古書を元に明治以降の神職が記した書(『新鹿』)には採択されていないことからも、信憑性に欠けるネタと思われる。ボツ。
 
③ 杵島曲
「霰降る 杵島が嶽を険しみと~」は「歌垣の基本歌」として都でも知られていたらしく、同じような内容が奈良時代にも謡われている。(万葉集
似たような歌に「梯立の 倉梯山を嶮しみと 岩懸きかねて 我が手取らすも」(記紀:仁徳代)があり、これは駆け落ちの場面で歌われている。
 
「恋愛歌=杵島曲」の認識は奈良時代には既にあったということだが、どれもテーマが「駆け落ち」であり、「駆け落ちしてでも貴女が欲しい」などという甘い内容ではなく、「恋人同士で逃走」「今まさに追いつかれそう」という逼迫した歌で、どうにも恋を応酬する「歌垣の歌」ではない。
時代からすればこの系統の歌の初出は、その仁徳代(古墳時代)の「天皇の妃候補を奪った速總別王が、天皇の軍から逃げる時に唄った歌」なので、元々これは「逃走」の歌ではないかと思われる。速總別王と姫は結局、追いつかれて殺されてしまう。
借間命が常陸で「杵島曲」を用いていたのは、仁徳に近い時代。「敵を追いつめ」「やがて殺してやるぞ」という意を込めて、敵を誘きだす為の華やかな舞楽として使われたのではないだろうか。「鄙の地の奴らは、そんな都の風雅(常識)を解せず騙されるに違いない」という侮りが伺え、しかもその通りになってしまうイヤ~な展開だ。だからこそ伊達政宗公らのあの返歌は、東の者にとってスッキリ爽快な素晴らしき一発であったのだ。
 
④ 杵島山の周辺神社
佐賀の「杵島山」(H344.7m)は南の白岩山から北の勇猛山までの全部を言うらしく、『肥前風逸』には「1つの離れ山がある。南西から北東にかけて3つの峰がある」と記されている。
その峰の一つ、犬山岳の東麓にある「歌垣公園」は、白石町から有明湾を見渡せるビューポイントだ。
 
それより更に東へ降りると、平地の田んぼの中の起伏に杵島神社があって、それより南の高台(杵島山の尾根先)には五十猛(木の神)とその妹たち(大屋津姫&柧津姫)を祀る稲佐神社(かなりの古社)が。
何でも「推古代に百済王子が来て祀った」とか、「この山に五十猛が木種を蒔いた」(紀四書)とかの伝承がここに残っているらしい。う~ん・・・・・・「キシマ=木の島説」に引っ張られている?
 
北の高台の「妻山神社」も、稲佐神社と同じ祭神。
「彦神、姫神御子神の三神を祀る」という『肥前風逸』の記述にやや近いので、この稲佐神社が元々の杵島神社ではないかと思うのだが。
 
余談、でもないのだが、「景行紀」には「大牟田にあった木が、朝日が当たると杵島山を隠し、夕陽があたると阿蘇山を陰らせた」と語られている。大牟田を挟んで、阿蘇の反対側にある、それなりの山というと・・・・・・
本来のキシマは、多良岳(山頂の多良嶽神社の祭神は五十猛)なのかもしれない。
 
④ 面浮立
「面浮立」は「農業儀礼に関わる神事」が発祥とも言われていて、佐賀県はこちらを支持している模様。
「浮立」ふりゅうは「=風流」で、平安時代に始まる庶民の娯楽(神楽や田楽などの踊り)のこと。日本各地に祭りとして残っているが、面を使うところはあまりない。
 
「面浮立」は、「鬼が神前に乗り込む」「神と闘って鬼が負ける」「神前で鬼が舞う」の三部構成。
「農業儀礼説」では「鬼=山の神」としているが、 「鬼=蝦夷」とする方がしっくりさっくりくる感じ。シャグマの無い、濃紺一色の衣装の鬼(音成地区)の方が、古代っぽくてイカしている。今度佐賀旅行する時(いつだよ・・・)は、これの時期に合わせて見に行きたいものだ。
 
 それより2016年2月の大分旅行、ムリヤリ時間を作って阿蘇神社に参拝しておいたのは結果的に良かった。 何故って、戻って原稿をやっていたら4月、熊本地震でバタバタと社殿倒壊。 そのおかげで阿蘇神社の公式HPがやっと作られたのだが・・・ドメインが「or.jp」!=支援受入の公的対策?!)
 
肥前鹿島藩の初代藩主・鍋島さんちの忠茂くんは、徳川に仕えた時に香取(下総)に領地を賜った。その直前の戦国時代が「面浮立の発祥時期」と言われている。もう、ホントに、色々気になる。
 
阿蘇
阿蘇カルデラ湖は、活断層によって発生した西端の火口瀬(立野。本誌の「ちょっと低くなってる」ところ)を、溶岩が堰き止めると出来る。湖は、その瀬の浸透や崩壊によって排水されて無くなり、また阿蘇が噴火すると溶岩や噴火物で堰き止められて出現する――――という変遷を何度も繰り返している。
「古阿蘇湖」「久木野湖」、そして最後の「阿蘇谷湖」は縄文時代まではあったらしく、水深は推定500m。もはや海。
 
阿蘇大明神は最初、立野よりもっと北の部分を蹴った。が、山が二重になっていたので蹴破れず(現在の「二重峠」)、次に挑戦した時は蹴破れたのだが、勢い余って蹴破った後に転んで「立てない!」と言った。だから「立野」と言う――とか、その時流れた水により鹿が大量に流された(「数鹿流ヶ滝」)とか、色々な地名起源説話が残っている。また、「排水の勢いが止まったので”?”と思ったら、カルデラ湖に居た大鯰が立野火口瀬に詰まっていた」とか。この大鯰は溶岩の擬似化だろう。
 
因みに「鬼八」は健磐龍命の従者で、早足怪力。
 
⑦「カシマ=火山説」
どの学会にも無いよこんなの。何故だ。
 
⑧ 霰降る
何でも「霰」のことを、アイヌ語で「カウカウ Kawkaw 」と言うらしい。
まあ、それは放っておいて。
 
実は「霰降る」、「ト」にも掛かる。
「トホトホ降る様子」に掛かる。(トホトホって何だよ。そんな音しないよ。
しかし実際、「遠」にしか掛かってない。「遠つ淡海」とか「遠つ大浦」とかの、「遠い」+「湖沼」に掛かってる。
 
「近つ淡海」は琵琶湖(近江)のことで、「遠つ淡海」は浜名湖遠江)のことだけれど・・・・・・6世紀頃までなら、東国の大きな湖は「都から遠い淡水湖」という意味で全部「遠つ淡海」だったのじゃないのかね?
だとすれば大湖沼「霞ヶ浦」は当然「遠つ淡海」で、「遠つ淡海」=「鹿島の神」の暗喩になっていて、それで「霰降る」がついたのかもしれない。諏訪も当然「遠つ淡海」で、こちらの湖岸にはカシマ神に追い遣られた諏訪大明神が鎮まっている。
 
いやいや、これ以上手を広げている場合ではない。
よって、「ト」は無視。
 
⑨ 各地のカシマ
福島県南相馬市鹿島区やいわき市鹿島町、愛知県の「三河鹿島駅」は、「鹿島神社があるから」鹿島。信州の「鹿島槍ヶ岳」(100名山)も「麓に鹿島明神を勧請した鹿島村があったから」(『信府統記』)。
浜松市天竜区の「西鹿嶋駅」は、一帯で一番大きな神社(祭神:闇淤加美神)に坂上田村麻呂が関与する「鹿が渡った川の中の島」の伝説があるので「鹿の島」―――
と、本当にどいつもこいつも「鹿島神社」か「鹿の島」だ。
 
唯一、地図に載せた「能登鹿島郡」だけが違う。
7世紀は「越前国能登郡鹿島郷」なので「原・カシマ」ではないだろうけれど、範囲内の鹿島神社は全くの小社で地名由来としてはかなり微妙。
8世紀半ばに能登半島全郡で能登国として独立し、時に越中国に併合されながらも、現・中能登町七尾市鳳珠郡穴水町を「能登国鹿島郡」としていた。その七尾市の気多本宮(能登生国玉比古神社)の社伝に「加島国造」という、他では聞いたこともない国造が出てくるらしく・・・・・・これが本当だとしたら、「元々のここの地名がカシマなんじゃないか」説が強い模様。更にたどれば、結局の語源は「神島」だろうけど。
 
気多本宮は羽咋気多神社能登一之宮)と合同祭祀をおこなう対の神社。その祭りの道程は、羽咋川をさかのぼって御祓川をくだって七尾湾へ辿り着く「鹿島路」。もしかして気多神社は、常陸の鹿島とは全く別の発祥で「カシマ神社だった」のかも?と思える次第。
しかもその南の加賀国は、昔は「カガ島」だったらしい。これ、カ(ガ)島だった可能性もあるのでは???
・・・・・・まあ、専門ではないのでここまでにしておく。ホントに。
 
出雲の松江市鹿島神社は無いのに「鹿島町」があって、おお?!♪と思ったが、よく考えたら風土記の時代のここは「秋鹿郡」(明治の合併で「八束郡」)。で、島根郡と合併して鹿島町になった、と。なあんだ。
 
因みに「キシマ」は全然無かった。怪しいでしょ? 字以下ならどこかにあるのかも?
見かけたらぜひ、Wまで通報ください。
 
⑩ 出雲
市杵島姫は出雲大神の妻だ。
九州の阿曇族は出雲経由で信州へ入ったんだけど、その信濃国造も神八井耳の末裔って一体全体・・・
ああ、要石、出雲にもあるんだよねえ~
 
とにかく何をやっていても、出雲に目が行く。延ばしそうになる手を、バシバシ叩く。
 
⑪ キシマとキツキ
それにしても誤字なのかわざとなのか、たまに「杵築大神」(出雲大社の神のこと)を「杵搗大神」と書いている神社がある。確かに大社のある地名「キツキ」の意味としてはその字で妥当なのだが、パっと見「杵島」に見えるので乱視のWはギョっとする。
あ、そうすると、国東半島の杵築市大分県)ももしかして・・・・・・
(伊予との間で「景行紀」と似たような木の伝承があり、それが由来となって「木付」になったそうだが。)
極めつけ、「市杵島姫」のことを「杵島大神」と書いた神社があった。
あれは誤字か省略形だと思っていたけれど、いやまさか、そんな・・・???
 
・・・・・・いやもうホントに、ここまでにしておきます。
「カシマ」も関東も九州も、そして奈良以降も、完・全☆専門外!!なのだから。
この鬱憤は次回、『出雲国風土記』で!
 
<資料・系統図>  P28-29                                             
●とにかく「多氏」の扱いに困った。
資料によっては神八井耳命の後裔全てを「=多氏の後裔」にしていて、でも原典が確認できなかったのであんな系図に・・・・・・ やっぱ『旧事紀』と『新選姓氏録』、欲しいっ(>_<)
 
●カシマの原・祭祀一族は、「物部氏」説と共に「多氏」(=太氏)説も強い。
だが、「多氏と同族」(というか、神八井耳の裔)は常陸各地に居るが、本筋は信太郡にしか痕跡を残していない。大体、多氏には『記』編者の太安麻呂がいる。時代的には『記』編纂が終わってから『風土記になるので、もし「カシマ原・祭祀一族」が多氏だったら、もっと色々と「一族賛歌」なツッコミを入れているはずだよね。『記』の修羅場明けでツっこむ気力がなかったという可能性も非常にあるけど。
 
伊勢神宮大神神社鹿島神宮を祀り始め、出雲神宝検校(失敗)という信仰の構造改革を為した祟神天皇は「実在天皇一代目」との噂。その祟神は、大神神社の「供物を神に捧げる者」として実母の兄であり物部連の祖であるイカガシコヲ」を選任。その次の垂仁天皇は、物部十茅根に出雲神宝の検校をさせ(成功)、石上神宮の神宝管理者にも任命。「石上神宮の神宝」は武器が多くを占めているので、それで物部氏は軍事主導者でもあったと推測されている。
伊勢に関してはこの時代、その上位の穂積氏の方がまだ強いみたいだが、鹿島も最初は物部が派遣されていたと思った方が時代的に妥当だと思う。
 
< 特産物 >  P12                           
●納豆
納豆菌というのは枯草菌の一種なのでニセものと言われるのは心外!という意見もあろうが、天然でない点で学術的に違うし、出身大学の菌類学の教授が全然違うって言ってたのでもう絶対違う
本当の藁苞納豆は天然に近い形(手間暇かかる)で抽出しているので美味しいのだ。
 
●メロン
紹介しといて何だが、最近のメロンはネットメロンばかりで甘すぎて、Wは全く好きではない。もちろん我が信州名産のシャインマスカット(デラ甘い)も、全くもって好きではない。
が、一般的には高級で喜ばれる有名果物なので載せてみた。
ニッポンの贈答果物のレベルは世界最高で、最近やっと海外進出激しい模様。
 
●アンコウ
爬虫類好きにはたまらなく可愛らしいイキモノ、アンコウ。
水圧の関係で陸揚げするとふくれるが、海底では平たい。アクアワールドで見られる。
マンガによく出てくるチョウチンアンコウは、見た目が全然違う。
冬になると那珂~久慈の海沿いで「吊るし切」「あんこう鍋振舞い」のイベントをやっているが、「あん肝」食べるならやはり店にいかなくては。地酒もイイの多いし
↓この店、ドリンクも魚介も野菜も県産オンリーで旨くて、オススメ。もちろん納豆料理はあるし個室もある。
★酒趣 (水戸駅南側、市役所近く)
 
●蓮
「ハスの実の甘納豆」、食感が豆よりも堅くて、甘さ控えめ。もう、大好き。
でも、最近は通販でしか手に入らない(関東の太子堂も、もう取り扱っていない・・・)。ナマの蓮の実は味も無いし食感も特にどうということもなく、一度食べればもういいやという感じ。
アジアでは実の芯をお茶にしたり、漢方にしたり、茎も炒めて食べるそう。
 
<後記>                         
常陸を神社巡りすると、水戸サマのやっちゃった感 がビンビン伝わります。
つーか、要石をほじくるとか強引に式内比定するとかその為に合祀しちゃうとか、ホントに色々やっちゃったんですよ、あのお方。いや、現場を見てはいませんが。
 
当時は「国史編纂」を盾に東日本中に横ヤリ入れまくってたそう(噂)だから、本拠地の常陸は言わずもがな。
でも結局『大日本史』なんて、誰も読まないよねー?(てか、完成したの?)
 
まあ確かに、名高い温泉地が無いのは致命的。近年までアクセスも悪かった。意識は太平洋に向いていて、江戸とは利根川で繋がっていたから県民(江戸時代)は不便を感じなかったんだろうが・・・・・・
現在は高速とTXが通って空港まで作ったので、昔よりだいぶ良いはずだ。
 
そこを敢えて常磐線で、多・珂・ま・で・GO!!